創世記29:31-30:24「主のいつくしみを見つめる」
序
創世記にはこれまで何度か兄弟同士の争いが出てきました。アベルとカインに始まり、イシュマエルとイサク、そしてエサウとヤコブ。そしてここに来て創世記ははじめて、姉妹の争いを描きます。ヤコブの妻となった二人の姉妹、レアとラケルです。この二人の姉妹の争いは、一言で言えば「ドロドロ」です。激しさに関して言えば、これまでの兄弟同士の争いの方が上です。これまでのように、相手に対して殺意をもったり、家から追い出されたりということは起きていません。しかし、どちらも家族に留まっている分、こちらの方がはるかにドロドロしています。非常にリアルに、姉妹の争いを描いている。
自分にないものを求める
この姉妹はそれぞれ、自分がもっていないものを求めています。レアの場合は、夫からの愛情。ラケルの場合は、子どもです。けれども、相手はその自分にないものをもっている。すると、そこで何が生じるか。妬みです。相手が自分よりも多くの幸せを手にしているのが我慢ならない。相手よりももっと幸せになりたい。そのために、あの手この手を画策していきます。
まずは、女奴隷です。なかなか子どもが与えられないラケルは、ヤコブに一つの提案をします。3節「ここに、私の女奴隷のビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私の膝に子を産むようにしてください。そうすれば、彼女によって私も子を得られるでしょう。」これまで創世記を読んできた方には聞き覚えのある提案ではないでしょうか。あのサラが夫アブラムにした提案と全く同じです。あの提案が、その後のアブラム一家にどれだけの悲劇をもたらしたのか、私たちはよく知っています。けれどもここで、その過ちがまた繰り返されようとしている。ラケルは、女奴隷ビルハが二人目の男の子を産んだ後、8節で「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言っていますが、結局その後、レアにも同じように、女奴隷を通して子どもが与えられます。争いは終わりません。
すると今度は、恋なすびを巡る取引が行われます。恋なすびというのは、ミニトマトくらいの小さな黄色っぽい実でして、古代ではいわゆる惚れ薬のような効能があるとして知られていたようです。ここでは、息子のルベンが見つけたものをレアがもっていたところ、それを聞きつけたラケルが、「それを少し私にも下さい」とお願いをします。もちろんレアは、「そんなの嫌に決まっている」と答えるわけですが、ラケルはそこで、「代わりに今晩、ヤコブさんと一緒に寝てもいいから」と持ちかけて、取引を成功させます。けれども結果、子どもが与えられたのはレアの方でした。ラケルの作戦はまたしてもうまくいかなかった。人が立てた計画はことごとく頓挫していきます。
罪人の悲惨な現実
この二人の姉妹の争いを見て、どう思われるでしょうか。ある人は、なんて愚かなと思われるかもしれません。確かに、私たち読者がこうして読んでいると、二人の争いはとても滑稽に見えます。なんでこんなことで争うのか。愚かに見えるかもしれない。
しかし、二人が置かれている立場を想像すると、そうは言えないはずです。まずはレア。夫に愛されないどころか、嫌われているとまで言われている妻。どれだけ後継ぎを産んでも、どれだけ夫に尽くしても、夫の愛を得ることができない。今度こそは、今度こそはと思っても、事態は何も変わらない。一体どれだけ辛い思いをしていただろうか。容易に想像できます。
それに比べてラケルは、夫の愛を一身に受けていました。彼女の愛は満たされていたはず。しかし、子どもが与えられない。古代の家父長制の時代にあって、妻の一番の役割は、お家の後継ぎを産むことでした。後継ぎを産んで初めて、妻としての役割を果たしたことになる。そういった時代を考えると、30章1節のラケルのことば、「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます」、これは大袈裟でないことが分かります。姉のレアにはどんどん子どもが与えられているのに、自分には一人も与えられない。自分はこの家にとって必要ない存在なのではないか。ラケルの苦悩もまた、相当だったはずです。
そう考えると、この二人の姉妹の争いは、二人だけの責任ではありません。夫ヤコブの責任の方がむしろ大きいかもしれない。レアとラケルを平等に愛していれば、ここまでの争いにはならなかったはずです。しかし、なぜヤコブはレアを愛することができなかったのか。大元を辿れば、責任はラバンにあります。ラバンがヤコブを騙さなければ、ヤコブは愛するラケルとだけ結婚して、レアは自分を愛してくれる他の人と結婚して、夫婦関係はうまくいったはず。ラバンの責任も非常に大きい。
ですからこう考えると、この二人の姉妹の争いは、誰が悪いと一言で片付けることのできない、複雑な問題であることが分かります。これが、堕落した世界の現実です。全員が全員、欠けをもった人間。その欠けをもった人間同士がともに生きる中で、様々な歪みが生じてきます。歪んだ世界の中で、人々は互いを妬み、争い、傷つけ合い、涙を流していく。心が満たされることはありません。あれが足りない、これが足りない、自分がもっていないものばかりに目が奪われていく。それが、堕落した世界の現実です。罪人の悲惨な現実。
ふさわしい時に与えられるいつくしみ
けれども、その悲惨な現実の中にあって、一際輝いているものがあります。主のいつくしみ深さです。31節「主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれた」。30章17節「神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ」。そして22節「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」。この物語を一貫して貫いているのは、主のいつくしみです。弱き者、心の砕かれた者に注がれる主のいつくしみ。
順番に詳しく見ていきましょう。29章31節「主はレアが嫌われているのを見て」。夫に愛されず、孤独に打ちひしがれていたレアの姿を、主はよく見ておられた。夫は自分のことを見てくれない。しかし、主は私の苦悩をご覧になられていた。主のいつくしみによって、レアは4人の男の子を産みます。
けれどもその後、ラケルの女奴隷ビルハと、レアの女奴隷ジルパがそれぞれ二人ずつ男の子を産む際、創世記の著者は神さまの名前を出しません。ラケルは6節で「神は私をかばってくださり」と言っていますが、これはラケルが自分で言っていることです。創世記の著者は、これは主の御業であるとは言いません。むしろ、自らの力で主のいつくしみを勝ち取ろうとする人間の業を描いています。
しかし、恋なすびの取引の後、17節「神はレアの願いを聞かれた」とあります。夫の愛情だけでは満足せず、恋なすびまでも奪い取ろうとする妹ラケル。一体こんな争いをいつまで続けなければいけないのか。レアの心は心底疲れ切っていたはずです。神さまは、そんなレアの願いを聞いてくださいました。先ほどは「主はレアが嫌われているのを見て」でしたが、今回は「聞かれた」です。弱き者の姿をご覧になるだけでなく、その願いを聞き、いつくしみを注いでくださる神さま。主のいつくしみがより豊かに描かれています。
その結果、レアには男の子二人と、女の子一人が与えられます。レアには合計7人与えられたのに対して、ラケルはいまだに0。もうラケルは神さまに見放されてしまったのか。そうではありません。神さまはラケルのことを決して忘れておられなかった。22節「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」。
主のいつくしみは、最もふさわしい時に与えられます。もし夫の愛情を得ていたラケルに、はじめから子どもがたくさん与えられていたらどうなっていたか。ラケルはいよいよ勝ち誇り、高慢になり、姉のレアを見下していたことでしょう。神さまそうはされませんでした。まずは、夫の愛情を得られず、孤独に打ちひしがれていたレアにいつくしみを注がれた。それは同時に、ラケルを高慢から守るためでもありました。レアだけではない、ラケルのためでもあった。子どもが与えられない中で、ラケルはいのちの主権者なる神さまにより頼むことを少しずつ学んでいったはずです。女奴隷を使ったり、恋なすびを使ったりしたけれど、人間は自らの業でいのちを生み出すことはできない。いのちを生み出すことができるのは、創造主なる神さまただお一人である。ラケルにとって、子どもが与えられない期間は、自らの無力と、いのちの主権者なる神さまを知る時となりました。その上で神さまは、最もふさわしい時に彼女の願いを聞き入れ、子どもを与えてくださった。すべてのことには、神さまの時があったのです。
いつくしみ深き
この後、応答の賛美として651「いつくしみ深き」を歌います。私たちが使っている聖歌総合版の歌い始めは「つみとがをにのう」となっていますが、ページの下の方に、「いつくしみ深き」から始まる讃美歌バージョンの歌詞も載っていますので、そちらを後で歌いたいと思っています。みなさんよくご存知の賛美歌だと思いますが、改めて歌詞をお読みします。
いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下さぬ 負える重荷を
いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん
いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 捨て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん
私たちの日々の歩みは、この主のいつくしみに覆われている。それを知るだけで、生きるのがどれだけ楽になることでしょうか。私たちの弱さをよく知った上で、かわらぬ愛をもって導いてくださるお方がおられる。悩み悲しみに沈めるときも、祈りに応えて慰めてくださるお方がおられる。世の人に捨て去られようと、私たちのことを心に留め、私たちの祈りを聞き、労ってくださるお方がおられる。この主のいつくしみに、目を注いでいきましょう。私たちは今日も、これまでも、これからも、主の豊かないつくしみのもとで生かされています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。