創世記29:1-30「主の訓練のもとで」

大喜びのヤコブ

今日の箇所は、前半と後半でガラッと雰囲気が変わります。前半は、ラバンの家に無事に到着できたという喜びであふれています。前回、ヤコブが元々いたべエル・シェバという町から、叔父さんのラバンがいるパダン・アラムという町までは約850kmの距離があったとお話ししました。長い旅路を経て、ようやく叔父さんがいる町に辿り着くことができた。しかも、そこにちょうど、ラバンの娘、ヤコブからすると従姉妹に当たるラケルが羊を連れてやってきた。ヤコブは大喜びします。

10節には、ラケルを見るなり、井戸の口の上にあった石を転がし、ラケルが連れてきた羊の群れに水を飲ませたとあります。その石は本来、その地域一体の羊の群れが集まるのを待ってから、羊飼いたちが協力して転がすものでした。地元のルールがあったようです。石もそれなりに大きくて、何人かで協力しなければ転がせないようなものだったのだと思います。

しかしヤコブは、ラケルにあってアドレナリンがバーっと出たのでしょう。地元のルールなどお構いなしに、たった一人で石を転がして、ラケルの羊に水を飲ませます。地元の羊飼いたちからしたら、「おいおい、よそ者が何をしているんだ」という感じだったはずですが、ヤコブはそんなことを気にしません。人目も憚らず、ラケルに口づけし、声をあげて泣き出します。ラケルからしたら、見知らぬ男に突然口づけされて、目の前で大泣きされて、相当なびっくりしただったはずです。けれども、ヤコブから事情を聞くと、すぐに走って父のラバンを連れてきます。するとラバンも走って出てきて、ヤコブを抱きしめて口づけして、「あなたは本当に私の骨肉だ」と、感動の対面を果たす。すばらしい場面です。

ヤコブの提案

しかし、ヤコブはこの後、ラバンのもとで大きな苦労をすることになります。まず15節「ラバンはヤコブに言った。『あなたが私の親類だからと言って、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。』」これは一見、気前の良い提案のように思えます。タダ働きではなくて、ちゃんと報酬をあげようという提案。けれどもそこには、「親戚だからといって、居候させるわけにはいかないよ。ここに滞在するならちゃんと働いてもらうからね」、そんなラバンの本音が込められているように感じます。

けれどもヤコブはこれをチャンスと捉えます。18節「ヤコブはラケルを愛していた。それで、『私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします』と言った」。結婚するために七年間仕えるというのは随分思い切った申し出だなと感じますが、ここには明確な理由があります。日本で言うところの「結納金」です。以前、24章でアブラハムのしもべがイサクのお嫁さんを探しにきた時のことを覚えておられるでしょうか。その時、アブラハムのしもべは莫大な贈り物を携えてやってきました。それがあったからこそ、彼らはすぐに結婚の取り決めをすることができました。けれども、今回は違います。ヤコブはおそらく無一文です。何の財産もない。そんなヤコブが、「タダで娘さんを私にください」と言えるはずがありません。そういう時代です。ですから彼はここで、「七年間タダ働きしますから、どうかそれを結納金の代わりとして、ラケルさんと結婚させてもらえませんか」と申し出たわけです。

するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにやるほうがよい」と、ヤコブの申し出を受けいれます。交渉成立です。ヤコブは喜んでラバンに七年間仕えます。20節には、「ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた」とあります。まさしく「愛の力」です。おそらくヤコブは、「七年間きっちり働いて、ラケルと結婚できたら、夫婦で一緒に元いたカナンの地に戻ろう。七年も経てば、エサウ兄さんもきっと赦してくれているだろう」と考えていたのだと思います。あと何年、あと何ヶ月、あと何日、期待に胸を膨らませながら、ヤコブは一生懸命働きました。

ラバンに騙される

七年間が終わると、ヤコブは「私の妻をください。約束の日々が満ちたのですから。彼女のところに入りたいのです」とラバンに言います。するとラバンは、土地の人たちを集めて盛大な祝宴を催します。「ついにこの時が来た!」ヤコブは大喜びだったでしょう。しかし、翌朝起きてみると、隣にいたのはラケルではなく、目が弱々しいと言われていた、お姉さんのレアでした。何でそれまで気付かなかったのか。ラケルとレアは相当似ていたのか、夜の間は暗くて見えなかったのか、顔にベールをしていたのか、あるいはヤコブが酔っ払っていたのか、分かりませんが、いずれにせよ、ヤコブが結婚した相手は何とレアであった。

ヤコブは相当ショックを受けたはずです。すぐにラバンに迫ります。「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか」。ヤコブの怒りが伝わってきます。七年間、何のために一生懸命働いてきたのか。俺の時間を返してくれ!

するとラバンは冷静に答えます。26-27節「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない」。すべてはラバンの計画でした。せっかくの労働力を、七年間で手放すわけにはいかない。何とかしてヤコブを引き留められないものか。そこで考えた策が、ラケルを使って、もう七年間ヤコブに働いてもらうということでした。ヤコブは内心、腸が煮えくり返る思いだったはず。けれども、愛するラケルと結婚するためには、ラバンの言うことを聞くしかありません。彼は渋々ラバンの提案を受け入れ、もう七年間、ラバンに仕えることになったのでした。

因果応報?

この箇所だけを読むと、ラバンはなんてひどい奴なんだと思います。底意地の悪い、貪欲な策略家です。いくらそれっぽい理由を並べ立てようと、騙しは騙しです。自分の利益のために、甥っ子を騙していく。しかもヤコブのラケルに対する愛情を利用して、騙していく。本当にひどい奴。

しかし、私たちは同じような人物をすでに一人知っています。自分の利益のために、相手の感情を利用し、家族を騙していく。そうです。ヤコブ自身がそうでした。自分が祝福を手に入れるために、兄エサウの空腹を利用して、長子の権利を奪い取ったヤコブ。父イサクのエサウに対する愛情を利用し、父を騙し、祝福を奪い取ったヤコブ。ラバンと何ら変わりがありません。また、ラバンは、「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ」と言っていますが、これは皮肉です。上の者より下の者が先になっていく。これはまさに、エサウとヤコブの兄弟で起こったことでした。彼は、そのしっぺ返しを喰らっている。因果応報、自業自得、自分で蒔いた種は自分で刈り取る。色々な表現がありますが、彼はまさにそういう経験をしたのです。

父なる神さまの取り扱い

しかし、この物語は単なる因果応報の話ではありません。そんな単純な話ではない。ここには、もっと広い、もっと深い、もっと豊かな父なる神さまのご計画があります。新約聖書を開きましょう。ヘブル人への手紙12章(新454)、まずは5節途中から7節まで「…『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか」。ヤコブは、主の訓練を受けているのです。祝福を受け継ぐ神の子どもとして、神さまの訓練を受けている。

続けて10-11節「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」。訓練の目的は何か。私たちを神さまの聖さにあずからせるため、義という平安の実を結ばせるためです。

ヤコブはラバンに騙されて初めて、自分がこれまで何をしてきたのかを悟ったはずです。自分の利益のためだけに人を利用し、人を騙す、底意地の悪い、貪欲な策略家。これはまさに自分のことではないか。自分がラバンに対して抱いているこの怒りはまさに、兄のエサウが自分に対して抱いている怒りなのではないか。彼はここに来てようやく、自分がこれまで犯してきた罪の大きさを知ったはずです。ラバンの姿を通して、自分の醜さ、自分の罪を初めて自覚することができた。

これが、神さまの取り扱いです。私たちの最も醜い部分、自分の力ではどうしようもない、放っておいたら致命的になるような最も罪深い部分に触れ、露わにされる。そこには、苦しみが伴います。スポーツでも何でも、訓練はキツくなければ意味がありません。けれどもその苦しみの中で、私たちは自らの醜さを、罪深さを知り、真実な悔い改めへと導かれていく。そこから私たちの人格は練られ、整えられ、成長をしていく。義という平安の実が結ばれ、神さまの聖さにあずかるようになっていく。キリストに似た者へと変えられていく。

すべては父なる神さまの深い、深い、愛ゆえです。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守る。わたしは決してあなたを捨てない。」ベテルの地でヤコブに約束された神さまは、そのお言葉の通り、とことんヤコブの旅路に付き合ってくださる。その旅路を通して、ヤコブが信仰者として少しずつ成長し、整えられていくために、あらゆることを導いてくださる。ときには訓練さえ与えてくださる。それが、私たちの父なる神さまです。

この父なる神さまの深い、深い愛のもとに、私たちも生かされています。神さまの子どもとして歩む中で経験する様々な苦労や困難があります。けれども、その苦労や困難と真摯に向き合う時、私たちはそこにあふれている神さまの深い、深い愛を知ることができる。その大きな御手の中で、私たちの醜い部分を、弱い部分を取り扱い、ご自身のきよさにあずからせようとしてくださる、父なる神さまの愛があることを知るのです。この神さまの御手に、私たちの身を委ねていきたい。父なる神さまの真実な御手に、いよいよ取り扱われ、キリストの似姿へと変えられ続けていきたい。私たちは、イエス・キリストによって神の子どもとされています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。