創世記28:1-22「天からのはしご」

お嫁探しの旅?

ヤコブのお嫁探しの旅が始まりました。「お前はエサウようにカナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。お前の母の実家に行き、そこで妻となる人を探してきなさい。」お父さんのイサクに命じられて、ヤコブは旅立ちます。けれども、この前の27章の出来事を知っている私たちは、お嫁探しというのがあくまでも表向きの理由であることを知っています。ヤコブが家を離れてなければいけなかった本当の理由は、兄エサウの手から逃れるためです。祝福を奪われた結果、「お父さんが息を引き取ったらすぐにでも弟ヤコブを殺してやろう」と目論んでいたエサウ。そのエサウの手からヤコブを守るために、おそらくお母さんのリベカがイサクに掛け合ったのでしょう。それでヤコブは、お嫁探しという表向きの理由で、生まれ育った家を離れることになったのでした。

一体ヤコブはどのような思いだったでしょうか。お母さんの作戦に乗って、見事祝福を奪い取ることに成功したヤコブ。よし、これで自分の将来は安泰だと思っていたことでしょう。しかし、彼はそこからすべてを失う羽目に陥ります。なんと、自らが家を追われることになってしまった。向かう先は、叔父のラバンがいるパダン・アラムという町。距離にしておそらく800から900km離れています。室蘭から考えますと、新潟市まで車で行って大体850kmくらいになるそうです。その距離を向かっていかなければならない。さすがにラクダには乗っていたでしょうか。しもべも一人や二人くらいはいたでしょうか。詳しいことは書いていないので分かりません。いずれにせよ、ヤコブは不安と孤独のどん底にありました。何もない荒野で、日が沈み、真っ暗になる中、石を枕にして横になるしかない。一体なんでこんなことになってしまったのか。自分はこれからどうなってしまうのか。仮に、この旅が成功して、叔父さんの家で無事にお嫁さんをもらえたとして、果たして自分は元いた家に戻ることができるのだろうか。エサウ兄さんは果たして自分のことを赦してくれるのだろうか。希望が全く見えてこない。文字通り、お先真っ暗です。ヤコブはこれまで経験したことのない絶望の中にいたはず。

天からのはしごの夢

しかし、彼はそこで夢を見ます。12節「すると彼は夢を見た。一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた」。天と地を結ぶはしご。創世記の中でも一二を争う印象的な場面です。はしごというのは、離れた二箇所をつないで、そこを行き来するためのものです。この世界を造られた全知全能の神さまがおられる天と、罪人の私たちが住んでいるこの地上。その間には本来、どうやっても埋められない距離があります。思い出すのはバベルの塔です。人間は頑張って天にまで届く塔を建てようとしましたが、最終的にその企ては失敗に終わりました。人は決して、自らの力で天に上ることはできないのです。

しかし、遠く離れているはずの天と地が今、一つのはしごによってつながっている。これは、人がかけたはしごではありません。12節の脚注を見ると、「別訳『地に向けて』」とあります。人が地上の側からかけたのではなく、神さまご自身が天からかけてくださったはしご。神さまご自身が、地上の私たちのところに来てくださったのです。

しかもそのはしごの上を、神の使いたちが上り下りしている。上っている、これは、私たちの祈りは、叫びは、確かに神さまのもとに届いているということです。神さまは私たちのことをいつも気にかけ、私たちを見守り、私たちの声を聞いてくださっている。それだけではありません。神の使いが下っている、これは、天から与えられる神さまの恵みのみわざを表しています。私たちをいつも見守り、私たちの声を聞いてくださるお方は、時に適って、私たちに必要なものを与え、その力強い御手をもって、私たちをあらゆるわざわいから守ってくださる。

この光景は、ヤコブにとってどれほど大きな慰め、励ましになったことでしょうか。彼は、不安と孤独のどん底にありました。もう親は自分を守ってくれない。誰も自分を守ってくれない。一人で孤独にこの旅を乗り切らなければならない。しかし、それは間違いです。ヤコブが気づいていないところで実は、神の使いたちはせっせと忙しくはしごを上り下りしていた。神さまは御使いたちを総動員して、ヤコブを守ってくださっていた。

新しく響く神の約束

そして神さまご自身が語りかけます。13-15節「そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。『わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』

同じような祝福のことばは、ヤコブのお祖父さんアブラハムにも、お父さんイサクにも語られていました。ヤコブはお祖父ちゃんやお父さんからこの祝福のことばを何度も聞いたことがあったはずです。「あぁ、神さまの祝福ってこういうことでしょ」、頭では理解していたはず。しかし、本当の意味では理解していませんでした。だからこそ彼は、自分の力で祝福を勝ち取ろうとしていたのです。神さまの祝福を、単なるご利益と考えていた。人から奪い取ることができるものと考えていた。

しかしここに来て彼は、自分の祝福理解が、神さま理解がどれだけ間違っていたかを思い知ったはずです。神さまの祝福というのは、人間が自らの力で勝ち取るものでは決してない。ただ恵みによって、一方的に与えられるものなのだ。今、こんなにも無力で、惨めで、不安と絶望のどん底にいる自分に対して、これほど豊かな祝福を約束してくださる。こんなどうしようもない自分に対しても、「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても守り、決してあなたを捨てない」と言ってくださる。これが、神さまというお方なのか。彼はここで生まれて初めて、生けるまことの神さまと出会いました。それまで何度も聞いてきた祝福のことばが、まったく新しいことばとして響いてきた。お祖父ちゃんに語られた神さまのことばではない。お父さんに語られた神さまのことばでもない。自分自身に語られ、迫ってきた、神のことばを聞いたのです。

「私の神」と出会う旅路

眠りから覚めたヤコブは、神さまに対して誓願を立てます。20-22節「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私にくださる物の十分の一をあなたに献げます。

それまでヤコブにとって、神さまという存在は、「お祖父ちゃんアブラハムの神さま」、「お父さんイサクの神さま」でした。いわゆる家の宗教、親の信仰でした。けれどもここで彼は何と言っているのか。「主は私の神となり」。彼の信仰はここで、自立への大きな一歩を踏み出すことになります。もちろん、まだまだ未熟な信仰です。ここで彼は、「神が私とともにおられて、私を守り、パンと衣を下さり、無事に帰らせてくださるなら」と言っています。条件を提示しているようにも聞こえる表現です。彼の中ではおそらくまだ、神さまの約束を100%信頼するには至っていない。彼の信仰が成熟していくためには、まだまだ時間が必要です。しかし少なくとも彼はここで、「私の神」を知る旅路の第一歩を踏み出しました。彼はこの先、その生涯を通して、「アブラハムの神、イサクの神」では終わらない、「私の神」を知り、「私の神」に出会い続ける旅路を歩んでいくのです。

このヤコブの生涯は、すべての信仰者の生涯でもあります。私たちはみんな、「誰かの神さま」「誰かの信仰」からスタートしています。ヤコブのようにクリスチャンホームの場合は「親の信仰」でしょうし、そうでない場合も、「あの友だちの信仰」、「あの牧師の信仰」、「教会の皆さんの信仰」、必ずそこから出発します。しかし、自分の無力さ、弱さ、惨めさを知る時、不安と孤独のどん底に陥る時、私たちは初めて、天からのはしごが、私たちのもとにも届いていることに気がつきます。「誰かの神さま」が「私の神さま」でもあることに気がつく。そこから私たちは、「私の神さま」と出会い続ける旅路を歩んでいくのです。

ヤコブがこの後も、何度も苦難を経験するように、私たちも何度も苦難を経験します。自分の無力さを、弱さを何度も思い知らされる。しかしその度に、天からのびているはしごの上を、御使いたちが上り下りしている、その幻を見させていただくのです。いつも私たちとともにいてくださる神さまに、何度も、何度も出会い続けていく。その度に、これまで何度も聞いてきたみことばが、まったく新しいことばとして響いてくる。神のことばが自分に迫ってくる。それが、信仰者の生涯です。「私の神さま」と出会い続ける中で、信仰者として一歩一歩成長していく。今日も神さまは、天からはしごをのばして、私たちのもとに来てくださっています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。