創世記27:1-46「人の思いと神の計画」
序
イサク、リベカ、エサウ、ヤコブ。4人家族をめぐる物語です。物語としては非常に面白い。しかし、非常に後味の悪い物語でもあります。父親を騙した者が最終的に祝福を手にしていく。そんなことがあっていいのか。しかもこれは聖書の物語です。こんな証しにならない家族の物語が聖書に載っているのは、一体どういうことか。私たちは戸惑います。
4人それぞれの問題点
この4人の登場人物、みんなそれぞれ問題があります。事の発端は、母親のリベカです。夫イサクが長男エサウを祝福しようとしているのを聞いたリベカは、「このままではまずい」と思い、弟ヤコブが祝福を手に入れるための作戦を自ら考え、ヤコブをけしかけます。13節を見ると、「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい」、相当な覚悟をもっていることが分かります。一体何がリベカをそこまで動かしたのか。この一つ前、26章の最後を見ると、エサウは外国の妻を二人迎えていて、それがイサクとリベカの悩みの種となっていたとありますから、エサウは家を継ぐのにふさわしくない、ヤコブこそ祝福を受けるべきだと考えていたのかもしれません。あるいは、エサウとヤコブが生まれる前に神さまから与えられた、「兄が弟に仕える」ということばをずっと覚えていたのかもしれません。理由は正当だったかもしれない。しかしそうだとしても、子どもをけしかけて、年老いた夫を騙させるというのは許されない行為です。
次にヤコブ。彼ははじめ、母親の提案に対して慎重な姿勢を示しました。11-12節「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります」。彼が心配しているのは、嘘がバレて、自らの身にのろいを招いてしまうことです。父親を騙すこと自体には何の負い目も感じていない。またさらにひどいのは20節です「イサクは、その子に言った。『どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。』彼は答えた。『あなたの神、主が私のために、そうしてくださったのです。』」神さまの名前を持ち出して、父親を騙していく。これは最悪です。「主の名をみだりに口にしてはならない」、十戒の第三戒に明らかに反しています。
次に、エサウはどうでしょうか。今回の件に関して、彼は明らかに被害者です。ついに祝福にあずかれると、意気揚々と狩りに出かけ、父親が好きそうなおいしい肉料理をもってきたら、自分のための祝福はもはや残されていなかった。本当にかわいそうです。しかし彼の問題は、その後の言動にあります。41節「エサウは、父ヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。『父の喪の日が近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。』」怒りに身を任せ、復讐を企てていく。このエサウの姿、誰かに似ていないでしょうか。カインです。弟アベルに嫉妬し、「あなたは罪を治めなければならない」と神さまに忠告されたにもかかわらず、怒りに身を任せ、アベルを殺害したカイン。エサウはまさに、あのカインと同じ問題を抱えていることが明らかになります。
最後に、イサク。彼もやはり被害者です。息子にいいように騙されてしまった、あわれな父親。しかしそもそも、彼は一家の主として、家庭を治めることができていたのでしょうか。25章では、イサクはエサウの方を愛し、リベカはヤコブの方を愛していたとあります。この家族は、今で言う機能不全に陥っていたのではないだろうか。そんな様子が想像されます。イサクの家長としての至らなさが、今回の不幸な事態を招いてしまった。そう捉えることもできるのではないでしょうか。
イサクの激しい身震い
リベカ、ヤコブ、エサウ、イサク。それぞれの問題を見て来ました。そこで考えざるを得ないのは、この物語は一体私たちに何を教えようとしているのかということです。神さまはこの物語を通して、私たちに何を語ろうとしておられるのか。
そこで目を留めたいのは、ヤコブに騙されたことを知った時のイサクの反応です。33節「イサクは激しく身震いして言った」。なんの身震いでしょうか。恐れからくる身震いです。イサクは何に対して恐れを抱いたのか。神さまです。ここでイサクはあの神さまのことばを思い出したはずです。「一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える」(創25:23)。イサクは、当時の一般的な習慣に従い、長男であるエサウに祝福を授けようとしました。あるいはそこには、エサウに対する贔屓の思いもあったかもしれません。しかし神さまは、イサクの計画のストップをかけました。エサウではない、ヤコブこそが祝福を受け継ぐ子どもである。神さまの揺るがないご計画が、改めてこのとき明らかにされたのです。
今日の週報の<今週のみことば>には、箴言19章21節を載せました。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」。人はみな、自分の思惑に基づいて行動します。今日の物語でもそうです。イサク、リベカ、エサウ、ヤコブ、それぞれがそれぞれの思惑で行動しました。人は決して、神さまの操り人形ではありません。すべての人には自由意志が与えられている。けれども、最終的に実現するのは、人の思惑ではなく、主のご計画である。イサクはそれを知り、激しく身震いしたのです。
ただ注意しなければならないのは、主のご計画が実現するとしても、人は自らの言動の責任を取らなければならないということです。ヤコブが祝福を受け継ぐ、これが神さまのご計画でした。しかしヤコブは祝福を手に入れるために、父親を騙す、しかも主の名を用いて騙すという大きな罪を犯しました。神さまは、そのような人の罪を見過ごすお方ではありません。ですからヤコブはこの後、苦労に満ちた生涯を送ることになります。自らが蒔いた種を刈り取っていくことになる。
けれども神さまのご計画は、そんなことでは揺らぎません。私たちの目から見れば、こんなヤコブが祝福を受け継ぐなんておかしいと思うでしょう。どう考えても理不尽です。筋が通っていない。しかし、神さまの恵みというのは、理不尽なのです。人間の理には適っていない。私たちには理解できません。神さまはただ、ご自分の自由な意志と決断によって、人に恵みに注いでくださる。ヤコブがどうしたから、私たちが何をしたから、そんなことでは神さまのご計画は揺るぎません。どれだけ人間がジタバタ動こうが、神さまはどしっと腰を据えて、ご自分のご計画を実現させるのです。
揺るがない神の計画
その最たる例は何か。イエス・キリストの十字架です。十字架の周りでは、それぞれの人間がそれぞれの思惑で好き勝手に動いていました。律法学者・パリサイ人たちは、自らの伝統と権威を守るために、ナザレのイエスを訴えました。ポンテオ・ピラトは、自らの保身のために、無実の男を十字架にかけることをよしとしました。弟子たちも、自らの身を守るために、愛する師を裏切り、散り散りになっていきました。自分のことしか考えていない、罪深い人間たちの姿です。しかし、その罪深い人間たちのわざを通して、十字架という神さまの救いの御業が成し遂げられました。神さまが人に罪を犯させたのではありません。罪の責任はあくまでも人にあります。しかし神さまのご計画は、人の罪によって揺らぐことはありません。人の罪深いわざをも、神さまはご自分の救いのご計画の中で用いられる。神さまの救いのご計画が揺らぐことは決してないのです。
「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」。この神さまの真理に対して、私たちは聖なる恐れをもたなければなりません。人は、神さまのご計画を簡単に、気安く語ることはできません。神さまのご計画は、私たちの思いを遥かに超えたところにあります。事が成し遂げられてはじめて「これは主のご計画であった」、私たちは知ることになる。驚きと感謝をもって、また時には、激しく身震いするような恐れをもって、主のみわざを知ることになる。すべてをみこころの内に治めておられる神さまの御名をあがめましょう。
この後、応答の賛美として、213「たよりしものを」を歌います。1番と2番の歌詞をお読みします。
たよりしものを われらは知る
この世はちりになるともよし
朽ちざるものを持てるわれら
目は奪われじ 地なるものに
なしとぐる主を われらは知る
さまたぐるもの などか恐れん
キリスト・イェスのみことばこそ
強き盾なれ また武器なれ
『聖歌(総合版)』213「たよりしものを」1,2節
「たよりしものを われらは知る」、「なしとぐる主を われらは知る」。人間の様々な思いが渦巻くこの世界にあって、私たちは信頼できるお方を知っている。救いのご計画を成し遂げてくださるお方を知っている。確信に満ちた、信仰告白の歌です。この信仰に堅く立ちながら、絶えず主のみこころを求めて歩んでいきたい。私たちは、決して揺らぐことのない主の救いのご計画の内に生かされています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。