詩篇100篇「感謝と喜びの礼拝」

今日は6月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関するみことばに聴いていきましょう。はじめに、年間聖句を読みます。週報の表紙の一番上をご覧ください。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ人への手紙12章1節)この箇所から、「礼拝の民として歩む」という目標を立て、毎月第一の主の日の礼拝の中で、礼拝に関するみことばに聴いています。

今日私たちが開いているのは、詩篇100篇です。これは礼拝式の招きのことばとしてよく読まれる詩篇です。「主に向かって喜びの声をあげよ」、「主に仕えよ」、「御前に来たれ」、「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ」。詩全体が礼拝への招きになっています。実際、この詩篇は古代イスラエルで、感謝のささげ物を携えて神殿に入ろうとしている人々に対して、レビ人などの聖歌隊が歌った詩だと考えられています。

全被造物の賛美

まず目を留めたいのは、この詩人は一体誰に呼びかけているのかということです。「喜びの声をあげよ」、「主に仕えよ」、「御前に来たれ」、誰に呼びかけているのか。「イスラエルの民よ」ではありません。「会衆の皆さん」でもありません。「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」、「全地」です。今日、私たちが歌った1曲目の聖歌を覚えておられるでしょうか。26番「つくられしものよ」。歌詞はこうでした。

造られしものよ、声あげて歌え。ハレルヤ!ハレルヤ!

造り主にして、その支配者なる、主なる神を。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!

風よ主を歌え。雲よ主をほめよ。ハレルヤ!ハレルヤ!

朝日いざ歌え。夕月いざほめよ、主なる神を。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!

きよらの流れよ、主のために歌え。ハレルヤ!ハレルヤ!

人をば温め、照らす日よ歌え、主なる神を。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!

『聖歌(総合版)』26番「つくられしものよ」

まさに、「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」です。風も雲も、朝日も夕月も、きよらの流れも、人を温め照らす日も、造られしものすべてが神さまをほめたたえている。

私たちは自然を見ると、美しさを感じます。特に北海道の自然は最高です。室蘭の自然も最高に美しい。けれどもそこで考えたいのは、その美しさが何を指し示しているのかです。古代から、人々は美しい自然を見て、自然そのものを神として崇めてきました。太陽の神さまがいて、月の神さまがいて、川の神さま、山の神さま、狐の神さま。八百万の神と呼ばれるように、ありとあらゆるものを神として崇めてきました。自然の美しさは、自然そのものから来ていると考えたからです。

しかし、自然の美しさが指し示しているのは、この世界を造り、今も治めておられる、主なる神さまただお一人です。太陽は光を照らしながら、「俺はすごいだろう。俺を礼拝しろ」と言っているのではありません。「俺を造った神さまはすばらしいだろう。一緒に神さまを礼拝しよう」、私たちの目を神さまに向けようとしている。私たちは美しい自然を通して、創造主なる神さまの栄光を目にしているのです。このことを意識すると、私たちの生活は本当に豊かになります。この美しい花も、青く澄んだ空も、鳥のさえずりも、力強く生えてくる雑草さえも、神さまをほめたたえている。どこへ行っても、神さまを賛美する声がそこら中から聞こえてきます。この世界は、神さまへの賛美で満ちあふれている。これまでとは全く違う景色が見えてくるはずです。

主なる神を知る

ただ、神さまに造られたのはこの自然だけではありません。私たちもそうです。それを語るのが3節です。「知れ。主こそ神。/主が 私たちを造られた。/私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」。私たちを造って終わりではありません。神さまに造られた私たちは、今も主のもの、主の民であり、羊飼いなる神さまの牧場で養われている羊です。私たちはそのことを知らなければならない。「知れ。主こそ神」。詩人は力強く私たちを招いています。

しかし、「知れ」と言うからには、そのことを十分に知らない、理解していない私たちの現実があるのではないだろうかと考えさせられます。そこで私は、高校生か大学生の頃でしょうか、母親に言われたことを思い出しました。「ひとりで大きくなったような顔をして」。具体的にどういう状況で言われたかは覚えていませんが、おそらく私が何か恩知らずな発言をしたか、それに近い態度をとっていたのだと思います。

その時は、母のことばにあまりピンときていませんでした。けれども、私自身親になった今、そのことばの意味がようやく少し分かるようになりました。子どもを産むということがどれだけ大変か。親がどれだけ心血注いで子どもを育てるか。どれだけの忍耐が求められるか。それなのに、大して感謝もされない。子どもの口から出てくるのは不平不満ばかり。私自身はかなりいい子の部類だったとは思うのですが、それでもやはり、もっと感謝するべきだったなと思っています。

人間の親に対してもそうなのですから、ましてや天のお父さまに対して、私たちはどれだけ恩知らずな態度をとっているでしょうか。神さまがどれだけ大きな愛をもって私たちを造ってくださったか。反抗ばかりしている私たちにどれだけ忍耐してくださっているか。しかしそんな私たちにも、神さまは深いあわれみをもって、豊かな恵みを注いでくださっている。5節にあるとおりです。「主はいつくしみ深く/その恵みはとこしえまで/その真実は代々に至る。」この天のお父さまのお姿を、改めて知りたいのです。1回で知り尽くすことは到底できません。この生涯を通して、深く、深く知り続けていきたい。

湧き上がってくる思い

すると、私たちの中である思いが湧き上がります。感謝と喜びです。この詩篇には、「感謝」「喜び」ということばが何度も、何度も出てきます。「主に向かって喜びの声をあげよ」、「喜びをもって主に仕えよ」、「喜び歌いつつ御前に来れ」、「感謝しつつ 主の門に」、「主に感謝し 御名をほめたたえよ」。詩全体が感謝と喜びに満ちあふれています。

感謝と喜びというのは、無理やり起こさせるものではありません。感謝しろ、喜べと言われて、素直にそのとおりにできるものではない。自ずと湧き上がってくるものです。私たちを造り、養い、導いてくださっている神さまのお姿を知るとき、そのいつくしみと恵みと真実を思うとき、私たちの心は自然と感謝と喜びでみちあふれてくる。私たちの生活の中で賛美があふれ出てくる。

この礼拝式も、まさにそういう場です。礼拝式に参加することを、「礼拝にあずかる」と表現することがあります。礼拝式を通して、神さまのことばを聴き、神さまの恵みにあずかる。主の民、主の牧場の羊として、神さまに養われる。とても大切なことです。けれども、そこで終わってしまっては、礼拝は完成しません。礼拝式は、「聖書講演会」ではありません。受けるだけではない。礼拝とは、ささげるものです。神さまからみことばをいただき、豊かな恵みにあずかった私たちは、そこから感謝と喜びをもって、神さまに賛美をささげる者になっていく。祈りをささげる者になっていく。そこまですべて含めて、礼拝です。一方的に受けるだけではない。受けた私たちが、それに応答をしていく。双方向の流れが大切です。

週報の式次第をご覧ください。今日の礼拝式も、神さまの招きを受け取るところから始まりました。そこから、神さまの招きへの応答として、開会の祈りをささげ、賛美をささげ、使徒信条をもって私たちの信仰を告白した後、主の祈りをささげます。その後、聖書交読で詩篇を読み交わします。詩篇というのは神のことばであるのと同時に、人間の祈りでもあります。その詩篇を読み交わすことによって、神さまのことばに祈りをもって応答するという、神さまとのダイナミックな交わりを私たちは経験します。そしてその後、再び賛美をささげ、いよいよ聖書朗読、説教が始まります。神さまのみことばに聴くときです。けれども、これも聴いて終わりではありません。その後に私たちは応答の祈りをささげていく。受けた恵みに対して、感謝をもって応答していくのです。とても大切な時間です。そしてそのまま、今度は歌をもってみことばに応答し、献金というかたちをもって、神さまに感謝をささげ、献身を表明します。そして今日この後ある聖餐式、これはイエス・キリストから豊かな恵みをいただくときです。この聖餐式の最後にも感謝の祈りがあります。必ずセットです。そして最後、すべての恵みのもとなる神さまをほめたたえ、神さまから祝福をいただき、私たちは新しい1週間の歩みへと遣わされていきます。

神さまからの恵みと、私たちの応答。このセットこそが、まことの礼拝である。私たちの礼拝のあり方を、改めて心に刻んでいきましょう。最後にもう一度、詩篇100篇全体をお読みします。

全地よ に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもってに仕えよ。

喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ。こそ神。

主が 私たちを造られた。

私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。

感謝しつつ 主の門に

賛美しつつ その大庭に入れ。

主に感謝し 御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深く

その恵みはとこしえまで。

その真実は代々に至る。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。