創世記26:1-35「それでも井戸を掘り続ける」

地味な人?

アブラハム、イサク、ヤコブ。イスラエルの民の先祖として、聖書の中で繰り返し名前が出てくる三人です。アブラハム、私たちがよく知る人物です。創世記は多くのページを割いて、アブラハムの人生を描きだしています。ヤコブもそうです。この後しばらくはヤコブの物語が続くことになります。ではイサクはどうか。この26章だけです。お父さんのアブラハム、息子のヤコブと比べて、ダントツで短い。

なぜイサクの物語はここまで短いのか。一つ言えるのは、イサクはアブラハムやヤコブと比べて、比較的落ち着いた人生を送ったから、ということです。第一世代として波瀾万丈の人生を送ったアブラハム。強烈な個性で、トラブルメーカーだったヤコブ。二人と比べると、やはりイサクは地味です。いわゆる「主人公タイプ」ではない。

26章の冒頭には、イサクが妻リベカを「あれは私の妹です」と偽ったというエピソードが記されています。みなさん覚えているでしょうか。イサクはお父さんアブラハムと全く同じことをしています。やはり血は争えません。けれどもこの出来事、よく読むと、実はそこまでの危機ではなかったことが分かります。アブラハムの場合、サラは実際に王さまに召し入れられました(創12, 21章)。あと少しのところで、サラは王さまと関係をもつところだった。しかし今日の箇所で、リベカは実際に召し入れられていません。その可能性はあったわけですが、そこまではいかなかった。もちろん当人たちからしたら、大きな出来事だったはずですが、アブラハムほど劇的な経験ではありませんでした。

理不尽な状況

その中で、この26章が一番分量を割いて描いているのは、井戸をめぐる出来事です。井戸は、今の私たちにとっての水道と同じで、生活になくてはならないものです。かつ、イサクは多くの家畜やしもべたちを所有していましたので、それなりの数の井戸が必要だったはずです。しかし、イサクの繁栄をねたんだペリシテ人たちは、イサクがアブラハムから受け継いだ井戸をすべてふさいで埋めてしまいます。それだけでなく、王さまのアビメレクから「ここから出ていって欲しい」とまで言われてしまう。ちょっと前までは「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される」と、寛大な対応を示してくれていたアビメレクですが、イサクがどんどん豊かになっていくのを見て、さすがに脅威に感じたのでしょう。理由は分かります。ただ、イサクからしたらあまりにも理不尽です。井戸を塞いだことを詫びるどころか、「出て行け」とまで言われるなんて。あんまりです。

皆さんだったらどうしますか。今の時代であれば、弁護士を雇って、訴訟を起こしてもいいレベルの出来事です。しかし、イサクは何も言いません。少なくとも聖書は、彼の反論や抵抗を記しません。やろうと思えば、武力で脅すこともできたはずです。彼にはそれだけの力がありました。けれどもイサクは大人しくそこを去り、かつて埋められた井戸を黙って掘り返し始めます。何とも哀しげな姿です。

ただ、理不尽な出来事は続きます。イサクのしもべたちがそこで新しい井戸を見つけました。大喜びだったことでしょう。しかしその井戸もすぐに、地元の羊飼いたちに強奪されてしまいます。ここでもやはり、イサクはやり返すことをせずに、そのまま身を引いていく。そしてもう一度井戸を掘り当てますが、それもまた強奪されてしまう。ようやく三度目になって、彼はようやく自らの井戸を手に入れることになります。

これで一件落着、ああよかった、と思いきや、なんと再びアビメレクが目の前に現れます。27節を見ると、「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか」、さすがのイサクも苛立っている様子が伝わってきます。するとアビメレクは、いわゆる平和協定のようなものを結びたいと申し出ます。それ自体はいいでしょう。ただ目につくのは、彼の言い方です。29節「私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝福されています」。「私たちがあなたに手出しをせず」、これは本当です。彼は手を出さなかった。しかしその後、「ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように」。これはカチンときます。一体どこが平和だったのか。送り出したのではなく、追い出したのではないか。それなのに今になって、「あなたたちも害を加えないと約束してください」だなんて、一体どの面下げて言っているんだ。読んでいる私たちの方がイラッとくるような、理不尽な要求です。

信仰ゆえの柔和さ

しかし、聖書はイサクの反論を一切記しません。それどころか、イサクはアビメレクたちを快くもてなし、彼らの要求をそのまま受け入れます。そして31節後半「イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った」。かつてイサクたちを自分たちの土地から追い出したアビメレクと、そのアビメレクを平和のうちに送り出したイサク。鮮やかな対比がここで描かれています。

このようなイサクの姿を見て、皆さんはどう思われるでしょうか。イサクさん、それでいいんですか?私はそう思います。優しいのは結構、争いを避けたいという気持ちも分かる。けれどもこんな理不尽なこと、そのまま受け入れていいんですか?あなたは明らかに被害者ですよ。もっと筋を通させるべきです!読んでいるこっちがそう言いたくなってしまう。しかし、これがイサクなのです。言うときは大胆に言うアブラハムとは違う。ずる賢く、がめついヤコブとも違う。平和を愛する、柔和な人。

ただ、「イサクはそういう性格だったから」と片付けてはいけません。なぜイサクは平和を愛する柔和な人であり続けることができたのか。それは、神さまの祝福の約束を信じていたからです。はじめからそうだったわけではありません。今日の3-5節には神さまの祝福の約束が記されていますが、イサクはその直後、妻リベカを妹と偽ってしまいます。神さまの祝福に信頼し切ることができなかった、不誠実な姿です。しかし神さまはそんなイサクを見捨てず、アビメレクを通してイサク家族の安全を保証し、その後も豊かな祝福を注いでくださいました。彼が優れた信仰者だったからではありません。一方的な恵みによって与えられた祝福です。イサクはそれをその身をもって知ったのでしょう。だからこそ、彼はどんな逆境の中でも、神さまの約束を信じ、忍耐をもって、柔和に歩むことができたのです。

そんな彼の信仰がよく表れているのが22節の最後です。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった」。自分たちの力で勝ち取ったのではない。自分たちの力で探し当てたのではない。神さまがこの場所を備えていてくださった。だからこそ25節で彼は、祭壇を築き、主の御名を呼び求め、井戸を掘り続けたのです。どんな逆境の中でも、忠実に井戸を掘り続けていれば、神さまは必ず必要な水を与えてくださる。祝福を注いでくださる。

そんなイサクの姿は、周囲の人々の心を打ちました。アビメレクのことばをもう一度見ると、28節「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました」、そして29節の最後、「あなたは今、主に祝福されています」。どんな嫌がらせをされても、理不尽な対応を受けても、柔和に、そして忠実に井戸を掘り続けるイサク。アビメレクたちはその背後に、神さまのお姿を見ました。そして神さまの祝福は、イサクを通して、今度はアビメレクたちにも及ぶことになりました。イサクを通して、神さまの平和が、その地に実現していった。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」。神さまの約束は確かに前進しています。

イエス・キリストのお姿

最後に、新約聖書を一箇所開きましょう。ペテロの手紙第一3章9節(新469)「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」。この世界には、理不尽なことが多くあります。いつまでこんな理不尽に耐えなければならないのか。そう感じることもあるでしょう。もちろん、すべてを甘んじて受け入れろと聖書は教えているわけではありません。イエス・キリストは、弱者を虐げていたパリサイ人、律法学者たちの偽善を大胆に糾弾しました。神さまは正義のお方ですから、私たちは不義に対して声を上げなければならない。しかし同時に、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、「父よ、彼らをお赦しください」、敵対する者たちの赦しを願った、イエス・キリストのお姿があります。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」、父なる神さまの約束を最後まで確信していたからこそ、十字架の死にまで従い歩んだ。このキリストの苦難を通して、神さまの祝福は全世界に広がっていきました。

理不尽なことがあふれているこの世界。しかし、神さまの祝福の約束に信頼する時、私たちはどんな逆境の中でも、忍耐深く、柔和に生きることができます。そんな私たちの生き様を通して、人々は神さまのお姿を見ていく。その地にあって、神さまの平和が実現していく。この希望のもとに、私たちは今日も、主に信頼しつつ、井戸を掘り続けていくのです。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。