創世記25:29-34「祝福はどこから」

エサウは被害者?

「どうかその赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。」この一言にエサウの性格がよく表れています。ヤコブが実際に作っていたのはレンズ豆の煮物だったわけですが、エサウはそれが目に入るなり、「何でもいいからその赤いのを食わせてくれ!」とせがんでいく。相当お腹が空いていたとは言え、まるで子どものような姿です。しかし私たち読者からすると、どこか憎めないような、そんな人物。

それと対照的なのが弟のヤコブです。31節「するとヤコブは、『今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください』と言った。」長子の権利というのは、財産の相続に関する権利です。一家のお父さんが亡くなると、財産は基本的に均等に子どもたちに分配されるわけですが、長男だけは、弟たちの二倍の財産を受け継ぐことができる。それが長子の権利です。ヤコブはおそらく、この長子の権利を奪う機会をずっと窺っていたのだと思います。「あんな単純でちょっと頭の弱い兄さんよりも、僕の方が家を継ぐのにふさわしい!」そんなことを普段から思っていたのかもしれません。そしてこの日、ついにチャンスが訪れました。「今なら長子の権利を横取りすることができるかもしれない!」頭の回転が速いと言いますがか、なんともずる賢い、エサウとは対照的な姿です。

そしてエサウはまんまとその策に乗ってしまいます。「長子の権利?そんなこと今はどうでもいいから、とにかく早く、早くその赤いのをくれ!」けれどもヤコブはあくまでも冷静で慎重です。後から「あんなの本気じゃないに決まっているじゃないか!」と言われないように、「今すぐ、私に誓ってください」と要求します。するとエサウはまたもや即答です。「分かった、分かった。とにかく早くしてくれ!」ヤコブとエサウの取引が成立しました。ヤコブは一食と引き換えに、将来の財産を手に入れ、逆にエサウは一食と引き換えに、将来の財産を失ってしまった。

これだけを聞くと、エサウは被害者のように思えます。もちろん本人の合意があったとは言え、相手の弱みにつけ込んで財産を奪い取る、まるで詐欺のような被害に遭ってしまったエサウ。ヤコブはなんて悪いやつなんだ。それが普通の印象です。しかし、聖書はこのエピソードをどう結論づけているか。34節の最後「こうしてエサウは長子の権利を侮った」。ヤコブのずる賢さではなく、長子の権利を侮ったエサウの態度を問題にしていく。それが聖書の視点です。

目の前の満足

この出来事は、新約聖書の中でも一度言及されています。ご一緒に開きましょう。ヘブル人への手紙12章16-17節(新455)「また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」17節は、この後創世記27章で語られるエピソードのことを指しています。エサウは単に、財産の権利を侮ったわけではありませんでした。彼が侮り、軽んじたのは、神さまからの祝福です。アブラハムの家系の長子というのは、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ存在でもあったからです。しかしエサウは、将来の祝福よりも、今この瞬間の空腹を満たすことの方により大きな価値を見出しました。普段から祝福なんかいらないと思っていたわけではないと思います。おそらく彼はこの後、長子の権利を簡単に売ってしまったことを後悔したはずです。冷静になれば分かる。しかし、人の本当の価値観は、切羽詰まったときにこそ露わになります。ピンチの時にこそ、その人が本当に大切にしているものが明らかになる。エサウはそこで、将来の祝福よりも、目の前の満足を、一時の喜びを優先し、選び取ったのです。

そう考えると、私たちは決して、「エサウは何をやっているんだ」と、エサウを馬鹿にすることはできないはずです。神さまに従い生きる先に、必ず祝福が待っている。信仰者であれば、誰もが信じていることです。ですから私たちは、みことばと祈りを通して、神さまが喜ばれる歩みを追い求めています。その先に待っている祝福を追い求めている。基本的にはそうでしょう。しかし私たちの生き方が本当の意味で問われるのは、切羽詰まった時です。様々な誘惑の声が聞こえてくる。「普段頑張っているんだから、今くらい妥協してもいいだろう」「これくらい、大したことないよ」「誰も見てないから大丈夫」「神さまもこれくらい見逃してくれるさ」。軽い気持ちで、一時の必要を、一時の満足を優先させていく。「今だけだから、普段は違うから」、言い訳したくなります。けれども、それが私たちの本性です。「神さまに従います!」何もない時に口で言うのは簡単です。しかしそれが本当に問われる時、私たちはどちらを選びとるのか。神さまが約束してくださっている将来の祝福を選び取るのか、それとも今この時の必要を、満足を選び取るのか。私たちは、自分の中にも存在しているエサウに気づかなければなりません。

ヤコブの問題

ただ、エサウだけではありません。私たちは、自分の中に潜んでいるヤコブにも気づく必要があります。将来の祝福を追い求めるという点において、ヤコブから教えられることはあります。けれども、彼もやはり、神さまの祝福のなんたるかを理解していませんでした。彼は、祝福は人から奪えるものと思っていました。弟である自分が祝福を得るためには、自分の力で、自分の知恵で、祝福を勝ち取っていかなければいけない。そのために、人を出し抜き、人から祝福を奪い取ることさえ厭わない。それがヤコブです。

しかし、神さまの祝福とは果たして、自分の力や知恵で勝ち取ることのできるものでしょうか。決してそうではありません。祝福は神さまから恵みとして与えられるものです。そして神さまはすでに、ヤコブに対して豊かな祝福を約束してくださっていました。しかしヤコブは、その祝福の約束に信頼することができなかったのです。今、自分の力で祝福を獲得することで頭がいっぱいだった。そういう意味で、エサウもヤコブも、根底にある問題はつながっているのかもしれません。二人とも、神さまの祝福を待つことができなかった。祝福を与えてくださる神さまに信頼することができなかったのです。

尽きない神の祝福

週報の<今週のみことば>をご覧ください。今日は民数記6章24-26節のことばを載せました。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」これは一般的に「アロンの祝福」と呼ばれる祝福のことばで、礼拝の最後の「祝福の祈り」でもよく用いられる箇所です。この祈りは、聖書が語る祝福のなんたるかをよく表しています。この祈りのキーワードは「主」です。「主があなたを祝福し」、「主が御顔をあなたに照らし」、「主が御顔をあなたに向け」、主語はすべて「主」です。主なる神さまこそが、私たちに祝福を注いでくださるお方。すべての祝福の源です。一時の満足、一時の平安、一時の快楽を与えてくれるものはこの世界にたくさんあります。しかし、私たちのすべてを満たすことができるお方、まことの平安と喜びを与えることができるお方はただ一人、主なる神さまだけです。だから私たちは、このお方の祝福に期待していきたい。このお方が示してくださっている祝福の道を歩んでいきたい。

そして、このお方の祝福には限りがありません。神さまの祝福というのは、絶対量が決まっていて、それを人が奪い合わなければならない、というようなものでは決してありません。神さまの祝福は無尽蔵です。尽きることがない。ですから私たちは、ヤコブのように必死になって自分の祝福を確保しようとしなくてもよいのです。むしろ、神さまがアブラハムとその子孫を選ばれたのは、彼らを通して神さまの祝福が全世界に広がっていくためです。自分のところで祝福の流れをせき止めて、祝福を溜め込むのではありません。私たちを通して、この世界に祝福があふれ流れていく。神さまは、この全世界を祝福したいと願っておられるからです。その神さまの願いを、私たち自身の願いとしていきたいのです。まず何よりも、他の何ものでもなく、ただお一人、神さまの祝福に期待をし、神さまが導こうとされている祝福の道を選びとっていきたい。そして自らが受けた祝福をもって、今度は周囲の人々を祝福していく者となっていきたい。神さまはすべての人を、主にあるまことの祝福の道へと招いておられます。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。