創世記25:19-28「選びがもたらすもの」
序
久々の創世記です。イースター、講壇交換、そして先週は5月第一主日でしたから、ちょうど4週間ぶりの創世記になります。前回は25章の前半、アブラハムの死と葬り、そしてイサク以外のアブラハムの子孫の系図を見ました。それに続いて、今日の19節はこう始まります。「これはアブラハムの子イサクの歴史である」。「これは〜の歴史である」というフレーズは創世記の中で何度も出てきます。ここから新しいエピソードが始まるよという合図です。今日の箇所に関して言えば、アブラハム物語はもう終わりで、ここからはイサクの家族の物語が始まるよという合図になっています。
祈りに応えてくださるお方
ただ、イサクとリベカ夫婦も、両親のアブラハムとサラ夫婦と同じ問題で苦労します。21節「イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女は不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった」。アブラハムたちの時と比べるとずいぶん簡単にまとめられていますが、イサクとリベカも、子どもが与えられないという現実に悩み苦しみました。イサクは40歳で結婚して、26節を見ると、60歳の時に子どもが与えられたとありますから、20年間祈り続けたわけです。長い時間です。けれどもこの苦難を通して、イサクはお父さんアブラハムと同じように、神さまの約束に信頼することを学んだはずです。いのちの主権者なる神さまにより頼んで生きることを学んだはず。ずいぶんあっさりと書かれてはいますが、イサクもやはり神さまの取り扱いを受けながら、信仰者として整えられ、成長していったのだと思います。
そこで、神さまはイサクたちの祈りを聞き入れ、子どもを与えてくださいました。しかも一人ではなく二人同時、双子です。けれども22節には、その双子がお腹の中でぶつかり合うようになったとあります。これはただ事ではないと思ったリベカは、神さまのみこころを求めて出て行きました。すると、神さまのことばが与えられます。23節「二つの国があなたの胎内にあり、/二つの国民があなたから分かれ出る。/一つの国民は、もう一つの国民より強く、/兄が弟に仕える。」
前半は喜ばしい内容です。「二つの国民があなたから分かれ出る」、それぞれの子孫は豊かに繁栄していくということ。神さまはアブラハムに、「あなたは多くの国民の父となる」と約束されました。その約束は確かに実現に向かっている。そんな神さまのメッセージが込められています。
けれども、後半部分からは不穏な雰囲気を感じます。「一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える」。兄弟の間に起こる争いを予感させます。しかもその争いはすでにお腹の中から始まっている!けれども、兄と弟、どちらが強いかと言えば、普通は兄の方が強いわけです。兄弟喧嘩の結果、お兄さんが勝って、弟がお兄さんの言うことを聞くようになる。これが普通です。しかも昔は、長男の権力は絶対でした。兄が弟に仕えるなど考えられません。常識に全く反すること。しかしこの兄弟の場合は違う。兄が弟に仕えることになる。いわゆる下剋上が予告されます。
選ばれた者
そこで、実際に生まれた子どもたちはどうだったか。24節から「月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身が毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた」。赤ちゃんは通常赤っぽいと思うのですが、それをあえて「赤い」というからには、ものすごく赤かったのかもしれません。毛衣というのも面白い表現です。新生児は通常、毛深いことが多いですけれども、「毛衣」というからには、こちらも相当な毛深さだったのでしょう。聖書が書かれたヘブル語では「毛」のことを「シェアル」と言います。その語呂合わせで、子どもは「エサウ」と名づけられました。
では弟の方はどうだったか。26節「その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた」。かかとをつかむ。「お兄ちゃんに負けてたまるか。僕が先に行くんだ!」そんな赤ちゃんの意地が感じられます。もちろん、赤ちゃん自身がそこまで考えていたとは思えませんが、以前語られた神さまのことばがまさに現実になっているような光景だったはずです。そこで弟は、ヘブル語でかかとを意味する「アケブ」ということばから、「ヤコブ」と名づけられました。
今日の箇所には、子どもたちが成長した後の様子も描かれています27節「この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた」。対照的な性格の二人です。この二人の内、どちらが神さまの祝福を受け継ぐ人となっていくか。「一つの国民は、もう一つの国民より強く、/兄が弟に仕える」。弟ヤコブの方です。後の歴史を見ていくと、エサウの子孫はエドムという国、ヤコブの子孫はイスラエルになっていきます。そしてご存知のとおり、イスラエルはアブラハム、イサク、ヤコブの祝福を受け継ぐ選びの民として、この先の歴史を歩んでいくことになります。神さまはエサウではなくヤコブをご自分の民として選ばれた。「一つの国民は、もう一つの国民より強く、/兄が弟に仕える」。これは単なる将来の予告ではなく、神さまによる選びの宣言でもあったわけです。
人の選びと神の選び
神さまはなぜエサウではなくヤコブを選ばれたのか。この先の物語をすでにご存知の方は、ヤコブは決して立派な人物ではないことが分かると思います。狡賢く、貪欲。行く先々で争いを引き起こしていきます。もちろん、お兄さんのエサウも立派な人物とは言えません。けれどもエサウとヤコブを比べるとき、まだエサウの方が愛されやすい、可愛げのある人物のように感じるのは私だけでしょうか。あまり先を見通さない、豪快で自由奔放な性格。それに比べて、ヤコブはどこか陰湿で、ねちっこいような印象を受けます。「名は体を表す」と言いますが、彼はまさにエサウの足を引っ張って、自らが上に立とうと画策していきます。小さい男です。
しかし、神さまはそんなヤコブをご自分の民として選ばれた。一体なぜでしょうか。ここに私たちは、人の選びと神さまの選びの違いを見なければなりません。人の選びには理由があります。通常は優れた者が選ばれます。例えば、学校の運動会ではよく選抜リレーが行われます(最近はどうか分かりませんが)。私が学生の頃もありました。そこで選ばれるのは誰か。当然、足の速い学生です。他にも、色々な大会やイベントで選抜チームが組まれることがありますが、選ばれるのはその分野において優れた人たちです。そこには選ばれる理由があります。
しかし、神さまの選びは違います。神さまの選びには、理由がありません。いや、もしかしたら神さまの側にはあるのかもしれませんが、少なくとも人には理解できません。一体なぜこんな人を選ぶのか。人の常識からは考えられないような者を神さまは選ばれる。
だれも誇ることがないように
ここで、新約聖書を一箇所開きましょう。コリント人への手紙第一、1章26-29節「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」
神さまは一体なぜこんな人を選ぶのか。もしそう思うことがあれば、まず自分たちの召しのことを考えてみなさい。パウロは語ります。私たちは神さまに召されて、神さまに選ばれて、キリスト者とされている。けれども、それは私たちの側に何か選ばれる価値があったからだろうか。そうではないわけです。人間的に見れば、教会の中に知者は多くないし、力ある者も多くないし、身分の高い者も多くはない。人と比べて特段優れているわけではない。むしろ、世間から見れば、弱く、取るに足りない者たちばかり。「私たちが選抜メンバーです!」とても胸を張っては言えないような、そんな私たち。しかし、だからこそ神さまは私たちを選んでくださった。理由は分かりません。ただ目的ははっきりしています。「肉なる者がだれも神の御前で誇ることができないようにするためです」。
選ばれるというのはうれしいことです。しかし、選びは多くの場合、人を高慢にさせます。自分は選ばれし者。周りの人たちとは違う、特別な存在。神さまの選びも、しばしばそのように理解されてきました。自分たちは神に選ばれし民だと勝ち誇り、好き勝手に振る舞い、周辺の人々を見下し、抑圧してきた。そのようなキリスト教会の歴史が実際にあります。多くの悲劇を生んできました。
しかし、神さまの選びは本来、人を謙虚にさせるものです。なぜ自分が選ばれたのか、突き詰めて考えていくと、行き着く先はただ一つ、神さまの恵みです。自分が人より強いから、賢いから、立派だから、優れているからではない。ただ、神さまの恵みによって自分は選ばれ、今ここにいる。自らを誇る余地は一切ありません。私たちにできるのは、こんな自分に目を留めてくださった神さまの恵みに感謝をし、この生涯をもって神さまに恩返しをしていく、その一点です。
最後にもう一度、ヤコブの生涯に目を向けましょう。ただ恵みによって、神さまに選ばれたヤコブ。けれども彼はここから、厳しい生涯を送ることになります。神さまに選ばれた者として、ふさわしく整えられていく生涯です。神さまの選びというのは、一度選ばれたらそれでおしまい、あとは好きに自由にしなさい、ではありません。神さまは、ご自分が選ばれた者にとことん付き合い、様々な出来事を通して、神の民の一員にふさわしい者へと練り上げてくださるお方です。これから、イサクの家族、ヤコブの物語を味わっていく中で、私たち自身もヤコブとともに整えられ、神の民の一員として練り上げられていきたいと思います。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。