ヨハネ4:19-24「まことの礼拝への招き」

今日は4月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関するみことばに聴いていきましょう。はじめに、年間聖句を読みます。週報の表紙の一番上をご覧ください。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)この箇所から、「礼拝の民として歩む」という目標を立て、1年間の歩みを送っています。

今日私たちが開いているヨハネの福音書4章19-24節のテーマは、「まことの礼拝」です。私たちにとって、まことの礼拝とは一体何なのか。まことの礼拝者として神さまを礼拝するとは一体どういうことなのか。

エルサレムかゲリジム山か

今日の箇所を理解するためには、背景にある、まことの礼拝をめぐる争いについて知る必要があります。19-20節「彼女は言った。『主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』」今日の箇所で描かれているのは、サマリアの女性とイエスさまとの間の会話です。サマリアというのは、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にある地域一体のことです。この地方に住んでいるサマリア人とユダヤ人は大変仲が悪いことで知られていました。理由は色々とあるのですが、その中の一つに、礼拝の場所をめぐる議論がありました。ユダヤ人にとって、礼拝すべき場所はエルサレムの神殿一択でした。ダビデとソロモンの時代、神さまはエルサレムの町を特別に選んで、そこに神殿を建設された。だから私たちはエルサレムで礼拝しなければならない。ユダヤ人は強く信じていました。

一方、サマリア人も聖書の神さまを信じていましたが、彼らが聖書と受け入れていたのは、創世記から申命記までの五つの書だけでした。創世記から申命記までの五書の中に、エルサレムは一切登場しません。イスラエルの民がカナンの地に入る前のことですから当然です。そこで、サマリア人が目をつけたのはゲリジム山という山でした。申命記を見ると、「あなたがたはゲリジム山の上に祝福を置きなさい」という神さまの命令が出てきます。そういった箇所を根拠に、サマリア人はゲリジム山の上に神殿を築いて、そこで神さまを礼拝していました。

エルサレムで礼拝すべきだと信じるユダヤ人と、ゲリジム山で礼拝すべきだと信じるサマリア人。お互い、自分たちこそがまことの礼拝をささげていると信じていました。また逆に、奴らは偽りの礼拝者だと互いにさばきあっていた。それが今日の箇所の背景にある問題です。サマリアの女性も当然この問題を知っていました。ですから、今自分の目の前にいるお方は預言者なのかもしれないと思った彼女は、「あなたはこの問題についてどう考えているのですか?」と尋ねたわけです。

それに対してイエスさまは答えます。21-22節「イエスは彼女に言われた。『女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。』」これまでに関しては、ユダヤ人の方が正しい。イエスさまはそう言われました。神さまは確かに、ダビデを通してエルサレムを選び、そこに神殿を建て、礼拝の場所として定められた。そういう意味で、ユダヤ人の方が礼拝についてよく理解している。この回答自体は、サマリアの女性の意に反したものだったはずです。なんだ、結局あなたもユダヤ人の一人に過ぎないのか。彼女はそう思ったはず。

しかし、イエスさまのポイントはそこではありません。これまでは確かにそうだった。けれども、これからは違う。この山、ゲリジム山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来る。これまでの議論なんて関係なくなる時代が来る!

御霊と真理によって

そしてイエスさまは続けます。23-24節「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」これは、礼拝の招きのことばでよく読まれる箇所です。御霊と真理によって礼拝をする。大変印象的なフレーズです。ただし、「御霊と真理によって礼拝する」とは一体何を意味しているのか、ふわっとしていてイマイチよく分からない表現でもあります(ヨハネの福音書というのはこういう印象的だけれども意味がよく分からないフレーズがたくさん出てきます)。

そこでポイントになるのは、24節はじめの「神は霊ですから」という部分です。神は霊である。もちろん幽霊ということではありません。また、単に目に見えないお方だ、というだけでもありません。大事なのは文脈です。この箇所の前に「霊」がキーワードとして出てくるのはどこか。一つページを戻った、3章8節、イエスさまがニコデモに対して語ったことばです。「風は思いのまま吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません」。冒頭の「風」はギリシア語で「プネウマ」ということばで、「風」とも「霊」とも訳すことができます。「風」と「霊」はギリシア語でまったく同じことばなのです。ヨハネはそれをここで上手く用いています。風は目に見えません。手で掴むことも、一つの場所に閉じ込めることもできません。思いのままに吹きます。霊も同じです。風のように、自由で何にも縛られない。それが霊というものであり、神さまというお方なのだ。

ですから、「神さまはエルサレムにしかおられない」、「いや、ゲリジム山にしかおられない」というように、神さまを一つの場所に縛り付け、留めようとしてはならない!イエスさまがここで言われているのはそういうことです。神さまというお方は、日本の氏神のように、特定の場所にだけおられるお方ではありません。この世界を造られたお方ですから、この世界を超越しておられます。一つの場所に留めることはおろか、人が自分の力で探し出したり、捉えたりすることさえできないお方。それが私たちの信じる神さまです。

ですから、私たちが神さまと出会い、神さまを礼拝するためには、神さまの側からご自分を現していただく必要があります。これを「啓示」と言います。私たちが神さまを礼拝するためには、神さまからの啓示が必要である。旧約の時代、神さまはご自身を現す場所、啓示の場所として、エルサレムを選ばれました。ですから人々は、神さまと出会い、神さまを礼拝するために、エルサレムの神殿に向かいました。これまではそうだった。

しかし、イエス・キリストがこの地上に来られた今、時代は変わりました。神さまご自身が人となり、この地上に住まわれ、イエス・キリストを通してご自身を余すところなく現してくださった。このイエス・キリストを通して、人は神さまと出会い、神さまを礼拝することができるようになったのです。イエスさまはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)。わたし道であり、「真理」である。イエス・キリストを通して、私たちは神さまの真理を知ることができる。その真理を通して、父なる神さまのもとに行くことができる。真理による礼拝は、イエス・キリストによって実現しました。

ただ、そこで終わりではありません。イエス・キリストが十字架にかかり、復活して天に昇られた後、神さまは真理の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました(ヨハネ14:17; 16:13)。御霊は、イエスさまが現してくださった神さまの真理を私たちに思い起こさせてくださいます。そして何よりも、私たちは内におられる御霊なる神さまを通して、神さまと出会うことができる。いや、出会うことができる以上に、神さまご自身が私たちの内に住んでくださっているのです。私たちが神さまに会いに行くのではなく、神さまの方が私たちのところに来て、私たちに出会ってくださった。御霊によって、そして真理であるイエス・キリストによって、私たちは神さまに出会い、神さまを礼拝することができる。御霊と真理による礼拝が実現したのです。

神さまの招き

「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」。そのように聞くと、すごくレベルの高いものを要求されているように感じるかもしれません。もちろん、礼拝における私たちの姿勢はとても大事です。真心をもって、熱心に神さまを礼拝する、とても大切なことです。しかしそれ以上に大切なのは、まことの礼拝というのは、私たちの熱心さによってではなく、神さまの招きによって実現するのだということです。

もう一度23節「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです」。神さまはご自分を礼拝する者を求めておられます。私たちと出会い、私たちとともに歩みたいと願っておられる。だからこそ、イエス・キリストをこの地上に遣わし、御霊を私たちの心に注いでくださったのです。真理の御霊が私たちの内におられる今、私たちは神さまを礼拝するためにわざわざエルサレムに行く必要はありません。エルサレムだ、ゲリジム山だ、そんな議論はもはや意味がありません。ユダヤ人も、サマリア人も、アメリカ人も、アフリカ人も、そしてもちろん日本人も、それぞれの場所にあって、唯一の神さまと出会い、神さまを礼拝することができる。神さまは世界中の人々を、御霊と真理によるまことの礼拝へと招いてくださっています。

この神さまの招きを表しているのが、礼拝式の最初に読まれる「招きのことば」です。これは単に適当な聖書箇所が読まれているのではありません。イエス・キリストによって実現した御霊と真理による礼拝へと神さまご自身が招いてくださっている。神さまご自身による招きのことばです。ですから私たちは、ただぼーっと聞き流すのではなく、今日も神さまは、私たちをまことの礼拝へと招いてくださっている、この恵みを、感謝をもって受け取っていきたいのです。そして、神さまの招きに応答し、真心をもって神さまへの礼拝をささげていきたい。心から神さまを賛美し、神さまに祈り、神さまのみことばに聴き、聖餐の恵みにあずかっていきたい。御霊と真理による礼拝が、今ここで実現しているからです。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。